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若手医師と商社マンが最強を目指すブログ

平成生まれの帰国子女である3年目医師と4年目総合商社マンがそれぞれの最強への道を虎視眈々と狙う

医者が金を稼いではいけないか

医者三年目なのに、金を稼いでいる気がしない。
医師という、一般的に見ればそこそこの高給取りであるのにも関わらず、だ。

仕事上のパフォーマンスが給料に反映されないことが、理由の一つに挙げられるかもしれない。医者の仕事が、クリエイティブであるか、複雑であるか、という議論は今回はしないが、医者の医療技術は給料と直結していない。現状として自分の医師免許と社会的配置が、僕の給料(価値)を産んでいるだけである。そこにプラスαの努力は関係ない。社会人3年目というのに、未だに守られた身分というか、トレーニング期間な気がするのはどうも切ない。

医者の仕事に対するモチベーションはなんなのだろう。そのような漠然とした疑問を抱きながら日々の業務に励んでいたところ、商社マン開司から、ある本を紹介された。 





著者は外資コンサルタントの代表である波頭亮。 
彼は自分を「プロフェッショナル」と形容する。

彼は「プロフェッショナル」の例として、医者・弁護士、建築士外資系企業コンサルタントを挙げる。これらの職種は、自分の技術のみで仕事が完結することが特徴だ。さらに共通点として、客からお金を得ることが目的なのではなく、クライアントの「問題を解決」することが目的である点も一致している。彼らの最終目的は、公益の追求にある。 

そんなプロフェッショナルたちの仕事の成果は、自分の能力の良し悪しで決まり、その結果に責任を持つ。常に最高を指向し、己を高め続けなくてはならない。そうしたプロフェッショナルのモチベーションの源は「自分はプロである」というプライドである。決して金ではない。

「最近プロフェッショナルのプロ意識低下が目立つ」と著者は憂う。ホリエモン姉歯建築士などを例に挙げ、これらの問題の根本的な原因を「プロフェッショナリズムの崩壊」に求める(例が古いのは2006年の本だから)。彼らが犯罪行為にまで手を染めてしまったのは、公益ではなく金儲けに走ってしまったからであるという。 

あとがきに、彼の本音が書いてある。ある日、著者が若い頃コンサルタンティングファームで一緒に働いていた仲間たちと再会した。その場で「お前はよくコンサルト(激務で給料が安い仕事を)続けているな」という言葉を投げかけられ、非常にショックだったとある。かつての同僚たちは、金融企業のトップなどに転職し、莫大な報酬を得ているとのことだった。誇りとプロ意識で切磋琢磨しあった仲間たちが金の亡者となってしまった のを目の当たりにし、愕然としたそうだ。
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驚くべきことに、この本で提唱されているプロフェッショナル像は、日本の医学部で教わる「道徳」にぴったりと重なる。金じゃなくて公益の為に尽くせ、と。「プロフェッショナルなので、長時間労働と相対的低賃金は、前提として受け入れよ」ということだ。

各々のパフォーマンスで給料が(あまり)変わらない医者は、結局プライドを肥大化させるしかなく、権力争いに明け暮れる。やれ助教授になった、◯◯科の部長になった。小さなクラスタ内からの評価をもとめつづける。

そんなことに、一体何の価値があるのか。「患者を中心にした医療の実現」から遠のく一方だ。この本のように、特権意識を煽ることに何の意味がある?専門医の傲慢につながるだけだろう。そして「医者だから激務は当然」という前提条件も、業務体系のブラック化、女医や看護師の早期離職を増悪させる。

僕は、この教育と著者の主張に、ノーを突きつける。僕は金が欲しい。正確には「金も」欲しい。僕はプロフェッショナル的自尊心が満たされるだけでは、満足できないんだ。 

金と公益が両立しない前提で考えてるから、違和感を感じる。お金は稼げないけど、多くの人から尊敬されて自尊心だけ満たされている状態なんてありえるのか。この資本主義社会で、プロフェッショナルを極めた場合、お金は稼げる。

僕自身が、医者、弁護士、建築士などの「高給資格職」になにか共通点が見出せるとすれば、それは「金儲けのために働いている」と社会に言っては絶対いけない、という点だけだ。それは、仕事の性質上しかたないだろう。著者も「コンサルタントは立派なプロフェッショナルだ!医者とか弁護士と同じように」とそうやって世の中に示すことで、自分の仕事の社会的な評価をあげようとしているだけなのかもしれない。

一般的社会から評価がされる素晴らしい事を成し遂げたい。 
自分の背中で、後輩達に勇気を与えられる男になりたい。
 
金がファーストプライオリティでは無いことは、誰もがそうなんじゃないか。 
人生の目標が自己実現にあることに、疑いの余地などないのだから。