若手医師と商社マンが最強を目指すブログ

平成生まれの帰国子女である3年目医師と4年目総合商社マンがそれぞれの最強への道を虎視眈々と狙う

なぜ都会の勉強会はキモオタばかり集まるのに、そこそこ盛り上がるのか

どうも医師のTatsuyaです。

ここ最近、職場以外での交流やコネクションを作るため、若手医師や医学生が集まる勉強会に立て続けに出席している。これは学会などの正式なアカデミックな場ではなく、やる気のある学生や若手医師が自主的に開催し、手作りで運営しているイベントである。場所は主に東京や大阪で、大学医学部の教室や、市中病院の会議室を使って行われている。

以前書いたことだが、僕も地方大学医学部に在籍していたとき勉強会の立ち上げと運営を行っていた。なので「都会で他大学とコラボしながら行う勉強会は、一体どんなレベルなのだろう?」と心を踊らせて参加した。

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しかし、そこには圧倒的な失望しか存在しなかった。

デブ、チェックシャツ、リュック、ださいランニングシューズ、pikoのパーカー。どうしてこうも運営側の人間が、ダサいキモオタやデブやイケダハヤトばかりなのか。肝心のプレゼンも、どれも眠くなるような主観的な戯言をだらだら述べているだけ。スライドづくりの最低限のガイドラインも尊守されておらず、人の時間をいただいてるという責任感を、全く感じることができなかった。

周りにおだてられて、ちょっと背伸びして参加しました。プレゼン慣れてないのですいません」などと、甘い戯言を開始前にのたまっているような幼児性の抜けないやつばかりで、少なくとも、社会人が時間を作って参加するようなレベルではまったくなかった。

しかし驚いたことに、適当に開催している割には、かなりの数の参加者が来ていた。これは意味不明であった。一体都会の医学生はどんだけ暇なのか・・・?他にもっと面白いことが山ほどあるだろうに。

 

僕の体験を記させてもらう。
僕の在籍していたとある地方大学は、医学科・看護科の単科大学であり、最寄りの他医学部までは車で2時間以上という有様であった。なので、基本的に自分の大学内からメンバーを募集する必要があった。

もともとモチベーションの高い大学ではなかったため、勉強会の運営メンバーや参加者を集めることはとてつもなく大変だった。その際に最も気にしていたことは、勉強会の中身ももちろんだが、何よりオシャレでかっこいい勉強会にすることであった。そのためには、まずは常連参加者と運営者が、圧倒的なかっこいい存在になることが必要だった。「あの会は、ただの勉強オタクではなく、留学や英語もできて、しかもモテる人が集まっている。最強を目指すメンバーの集いなのだ」そのような雰囲気作りが求められていたのだ。

先も書いたが、勉強を頑張る人というのは基本的にキモオタなので、勉強できるやつばかりで参加者のセレクションをかけると、ただの「キモくてモテない会」に成り下がってしまう。キモオタのみをターゲットにしていると、nが少なすぎて会が成立しなくなってしまう。リア充層とそのフォロワーを取り込むことが、喫緊の課題であった。

もちろん、僕自身も努力は惜しまなかった。ハブ的な役割を果たしている後輩の女の子をセフレにし、彼女にも参加を呼びかけてもらった。いわゆるステルス・マーケティングである。英語を圧倒的に磨き上げ、海外志向のリア充美女や、USMLEクラスタにも積極的にアプローチした。もちろん運動部に在籍し、肉体改造も手を抜かなかった。

このように、自分としては相当に努力をしていたつもりだった。それでも平均して15−20人集めるのが関の山であった。ITが発達している現代でも、物理的な制約はやはり大きいのだ。そうして不完全燃焼のまま僕は卒業した。

 

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運営の最前線に居たとき「もし都会で行うことができれば、とんでもない勉強会ができるのに」とタラレバを夢想したものだ。各大学や病院に在籍している生え抜きのアルファたちが結集し、圧倒的クオリティの勉強会を行う。僕の都会の勉強会に抱いていた想像はそのようなものだった。

実際に参加してみたら、とんでもない失望であった。実際は、自分の所属先では仲間や友達がおらず女ともまともに話せないようなヘタレが、似たような境遇の人と群れ、くだらないオナニー露出プレイに興じているだけの、煮ても焼いても食えぬクソイベントであった。

クオリティに比して参加者がやたら多いことに関しては考えてみれば当たり前で、参加する可能性のある学生と若手医師の数が、地方と都会では数十倍の単位で違うからだ。地方でやれば3−5人しか来ないようなクオリティでも、フェイスブックでちょろっと宣伝するだけで、50−80人という大きな人数が集まる。

「俺の会も、もし都会で行えば、毎回200人ぐらい参加者が来たんじゃないか」と、自分の境遇を呪った次第である。