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若手医師と商社マンが最強を目指すブログ

平成生まれの帰国子女である3年目医師と4年目総合商社マンがそれぞれの最強への道を虎視眈々と狙う

「恋愛工学の文明論」ー何故日本人は恋愛工学を受け入れられたか

お久しぶりです。開司です。

本ブログ読者の多くは、恋愛工学を受講されているか、少なくとも読んだことがある方々がほとんどだと思う。かくいう私、開司もそうだ。今では辞めてしまったが、藤沢数希先生のメルマガを第一号より購読したことにより、学生時代・そして社会人1-2年目を楽しく過ごすことが出来た。
一方で、恋愛工学には非常に大きな批判も多い。
「ただセックスをしたいだけだろ」、「なんかやたら難しい言葉だけ使っててキモい」
などなど。

しかしそれでも、藤沢氏のメルマガの購読者数はホリエモンに次いで日本で2番目に多いし、本に関してはアマゾンレビューが140件も付いていることもわかるように、現在多くの日本人に恋愛工学が受け入れられていることには疑いはない。

私はこれが、日本の文明発展として、必然的に受け入れられてきたのだと考えている。
今回は、恋愛工学の功罪を振り返りながら、何故日本でこれが受け入れられたか、ということを文明論的に論じてみたい。


恋愛工学の功績:非モテ男の指南書としての恋愛工学
恋愛工学の最大の功績は、非モテ男にセックス機会を提供したことだろう。かくいう私も、その恩恵にあやかった一人だ。思い返せば過去の彼女は「ディスる技術」、相手の「非モテコミット」を逆手に取る形で落としてきたのだ。

私はキモデブチビでオタクの大手商社マンではあるが、こんな私でも技術を活かし、自分の個性も混ぜれば、ある希望の女性をある程度落とすことが出来た。

恋愛工学とは、研究機関・学術に関連する大学機関等の知的生産所からは外れたところで生まれはしたが、1つの「学問」である。学問(discipline)とは "Branch of knowledge"、知の枝葉である。「知の体系」としての恋愛工学の活用は、非常に有効である。

- スタティスティカルアービトラージは、私たちに気軽にナンパをする勇気をくれた
- 「非モテコミット」は、「ダメだ!こんな状況では俺はフラレる!」という明確なシグナルを与えてくれる
- 「ディスる技術」は、諸刃の剣ながら非常に強力な、相手を落とすためのアクションアイテムだ

もし本当に「この人!」という好きな人が現れたとしよう。あなたは絶対にその人を落としたいと思うはずである。その場合「ディスる技術」を適切なタイミングで使ってみると良い。特に男性にとって「モテる」女性相手には効果は抜群である。

「フレンドシップ戦略」だってある。確かに高コストかもしれないが、もし自身がGood Genesを出す戦略が苦手だと判断した場合、Good Dadとなる方が、スタティスティカルアービトラージを取るよりも機会費用として少なく済むこともあるだろう。


恋愛工学の罪:つまびらかになった認めたくない真実と、恋愛工学生の暴走
恋愛を体系化することは実はほとんど誰もおおっぴらにやってこなかった。その理由の一つは、真実はいつも聞こえが悪いからだろう。

「女性は自分の理想の子を生むためにイケメンとセックスをしたがる」

こういった話をすると、ブサメンからの非難は明らか。「これは人種差別だ」と。確かに人種差別の一種かもしれないが、これは紛れもなく一つの真実であり、ロジックでもある。こういったある意味「汚い」真実を隠すために、これまで恋愛の体系化は避けられてきたのだ。

そして、自称「恋愛工学生」の跋扈と、ナンパ師の暴走。

恋愛工学の特徴として、その体系を自分で整理しなければならない、即ち1冊の本にまとまっていないことである。これは創業者の藤沢数希も認めていることだ。

従って、それぞれの概念と恋愛工学受講生の個々の言動だけをピックアップして、恋愛工学というのは批判されやすい。恋愛工学を受講された者の中には、これを悪用したり、モテない人たちを見下したり蔑視したりする傾向は、ある程度認められる。

だが、それは飽くまでも個々の恋愛工学受講生への批判であり、恋愛工学への批判とはなりえない。


文明論的考察:文化帝国主義としての恋愛工学
次に、恋愛工学は欧米式の恋愛方法論の略輸入盤と言っていいだろう。
恋愛工学が日本で導入されたことは、欧米による勝手な恋愛論の侵略、即ち日本への文化に対する帝国主義の始まりである。

聞こえは悪いかもしれないが、過去には欧米の帝国主義により、アフリカ・アジアは近代化に成功した。それと同じように、今の時代は日本での「恋愛の近代化」がなされている過渡期なのだと私は考えている。

そもそも、日本語の「愛」と 英語の"Love"は全く異なるものである。
「Love」が肉欲的な欲求を指すのに対し、「愛」は幕末以前では「うつくしい」と読まれていた。即ち「愛」=「美」=「品」であった。
1899年生まれの前衛書道家、上田桑鳩氏が下の作品を『愛』と名付けたのもの、こういったロジックがあったからに他ならない。
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そうすると、サブタイトルに対する回答が見えてくる。
恋愛工学が日本で受け入れられたのは、日本人の欧米的恋愛に対する憧憬、そして近代化をするための必然性によるものだといえるのだ。


僕が藤沢数希氏のメルマガ購読を辞めた理由
そして、私は藤沢数希氏のメルマガ購読を辞めた。
理由は幾つかあるが、そもそも藤沢先生の恋愛観と私の恋愛観は違うと感じたからだ。

私は夫を持つ別の女を孕ませたいとも思わないし、たとえ男性の本能が「繁殖」をするためにセックスをするのだとしても、人間としてそれを肯定するべきだとは必ずしも思わない。

男性は飽くまで「快楽」の為にセックスをするのである。

もし人間の本能をフルで肯定するとすれば、文字通り生存競争を生きるために「戦争」も肯定することになるのではないか。戦争は歴史にとって必要悪かもしれないが、敢えて起こすべきかというとやはり私は違和感を覚えるのだ。

だから僕は、藤沢数希氏のメルマガを辞めた。