若手医師と商社マンが最強を目指すブログ

平成生まれの帰国子女である3年目医師と4年目総合商社マンがそれぞれの最強への道を虎視眈々と狙う

ポモドーロ・テクニックを用いて圧倒的な集中力を発揮し、ライバルに差をつけよ

医師のTatsuyaです。 

日頃から勉強をつづけることが、将来への投資として最も価値あることに、異論の余地はないだろう。多くの社会人は仕事を始めてからは、仕事以外でのインプットを怠るようになってしまうが、それではいつまでも2流のままである。自発的な勉強が差を生むのだ。ただ、学生時代のように時間が無限にあるわけではないので、短期集中する必要が出てくる。自分の集中力をコントロールするのだ。

自分を操る超集中力、DaiGo 

Twitterで皆さんがオススメしていた、DiaGo著「自分を操る超集中力」と言う本を読んだ。題名と著者はかなり胡散臭いが、それなりに得るものはあった。いくつか有用な情報があったが、今回はその中で紹介されていた「ポモドーロ・テクニック」について説明したい。

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ポモドーロ・テクニックを一言で説明すると、は25分集中→5分休憩を4回繰り返す、というだけのことだ。以下に詳細を記す。

  1. 最初に取り組むタスクを決める
  2. 25分にタイマーをセットし、作業開始
  3. タイマーが鳴るまでタスクに取り組む。
  4. 雑念が湧いたら紙に書いて、また取り組んでいるタスクに戻る
  5. タイマーが鳴ったら、紙に記録する
  6. 5分間休憩し、2に戻る
  7. 25分作業を4回やったら20-30分の長い休憩をとる(以上繰り返し)

ポイントを幾つか補足する。

実際に作業に取り組む前に、そのタスクを完遂するのにいくつの「25分」必要かある程度予測し、その予定数の中でタスクを終わらせるよう努力する。この「計画」のフェーズも、集中力を高める上で重要だ。 

また、25分間は取り組んでいるタスク以外のことをしない、という点も肝要だ。25分間であれば、メールの返信、電話対応、急に思いついたやりたいこと、などは全部一旦横においておけるだろう。

その一つのタスクが終わるまでは、5分間休憩した後も同じタスクに戻る、という点も忘れてはならない。25分おきに違うことをしていては駄目で、基本的には1タスクずつ解決していく手法である。 

5分の短い休憩の際は、瞑想・散歩・背伸び、コーヒー飲む、といった、仕事に関係なくてかつ頭を空っぽにする行為が推奨されている。休憩が終わったら、さっさと作業に戻ることだ。

 

 僕もこの手法を、色々な場面で使ってみたが、一番有用だと思ったのが「行う必要性が非常に高いのにも関わらず、集中力が発揮しにくい場面」である。僕の場合は、難解な専門書を読むとき、英語の本を読むとき、やる気はあるが雑念が湧いてくるとき(自宅で勉強するとき)などで効果が高いように思う。

逆に、意識しなくても簡単にフロー状態(集中力が研ぎ澄まされ、作業に没入している状態)に入れる場合は使う必要はなさそうである。キングダム45巻を読むときに、格別なウィルパワーは必要としないのだ。

 

タイマーだが、僕はBe Focused Proというmacアプリを用いている。これはま、この写真のようにデスクトップバーに表示させることが出来、時間の変化がわかるのが良い。(普段はこのポップアップはデスクトップバーに収納されている)

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iOSアプリでも同じものがあり、アカウントを同期させれば、タイマーもタスクも療法で表示可能である。

Be Focused Pro - 仕事および勉強用の Focus Timer を Mac App Store で

Be Focusedはシンプルでとても使いやすいオススメアプリではある。有料のProにすれば広告が消えて最強になるが、有料版で一つ注意してほしいのは、mac版とiOS版も別々で存在するため、2回購入するハメになるという点だ。僕は基本的に何かを作業している時は必ずmac bookが起動しているので、どちらか一つならmac版をオススメする。

 

元々ポモドーロというのは、イタリア語でトマトの複数形を意味する単語である。開発者で当時大学生であったイタリア人のフランシスコ・シリロが、キッチンタイマーと紙を使って始めたシステムである。その時のキッチンタイマーがトマト型のものだったので、ポモドーロという名前になったのだ。

このキッチンタイマーというのが、ねじ巻き式でチッチッチッチと音がする、あの古きよき時代のものだそうで、手でタイマーを巻く、手で紙に書く、という物理的な行為そのものが、集中力を高めるらしい。フランシスコ氏が主宰するポモドーロオフィシャルページに、わかりやすい動画での説明があるので一度覗いてみて欲しい(英語)。

The Pomodoro Technique® - proudly developed by Francesco Cirillo | Cirillo Company

僕が作業する場所というのは、仕事場だったりカフェだったりと、流石にジリリリッ!っと何度もねじ巻き式タイマーを鳴らせるような環境ではないので、この本家ポモドーロテクニックは結局採用に至っていない。思いついた雑念を紙に書き出す、というこは周りに迷惑をかけずに実行できるので、行っており、それなりに効果的な気がする。

 

僕の場合、一番作業を邪魔するのは、LINEである。普段からmacアプリでLINEをデスクトップに表示しているため、気になってしまうのだ。現在は、作業中はアプリをオフにし、暇になったときにのみ表示させるようにしている。毎度アプリを起動させるのは手間だが、その手間が集中力発揮に一役買っている。

 

皆さんも、早速LINEをシャットダウンし、作業に没入しよう

(ちなみに、この記事は3ポモドーロで作成されています)。

自分の情熱が伝播することを一度でも体験すると「人を動かす快感」の虜になる

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医師のShima-Tatsuyaです。

僕は、他人の人生によく口出しをする。

初めてそれを行なったのは、高校生の頃。「難易度の高い大学に努力して挑戦するか、リスクの低い推薦入試でその辺のへぼい大学に入学するか」という選択に迫られていた同級生に、おせっかいをした時である。

僕は当時から最強になりたかった。また当時は想像力が乏しかったので、どんな人も理想を追ってチャレンジングな選択をするものだと考えていた。現実的には高校生の段階で既に自分の可能性に見切りをつけている人も多く、努力を放棄し小さくまとまろうとしている人もいた。僕はその存在を許せなかった。僕はそんな人をめざとく見つけ出し、「チャレンジすることのかっこよさ」をひたすら説いた。全ての人が僕の意見に納得することはなかったが、それでも一部の人達は反応を示した。

例えば、友人の一人は志望校のレベルを上げたら、落ちて浪人した。他の友人は海外に飛び出し、1年間帰ってこなかった。また別の男は僕の影響で大学を勝手に辞めた。僕の言葉だけが理由の全てではないだろうが、それでもきっかけの一つになった事は事実だろう。僕は「良いこと」をやってるつもりだった。他人の人生設計が僕の働きかけによる少し変わってしまうことに、大きな興奮を覚えたのだ。

 

大学生になったある日、「お前は一度リーダーを体験してみたほうがいい」と他大学に通っていた友人からアドバイスをもらった。彼曰く、Tatsuyaは横から口出しをするだけで、その責任を自分で負う覚悟が備わっていないとのことだった。その内容の妥当性はともかく、一度チャレンジしてみることにした。

その時はとある運動部に所属していたのだが、部長をやってみることにした。すると、部全体の運営方針、部員同士の意見衝突、個人のパフォーマンスとチーム全体のパフォーマンス向上をするための戦略といった、今までの人生で体験したことがない種類の問題に直面することになった。何より意外だったのが、僕自身がそう言った「各メンバーの問題、チームメンバー間の問題」を考えることが、全然嫌ではないという事実だ。

そして、この活動を通して、初めて「僕以外の人は、僕と同じ考え方や人生観を持っているわけではない」という当たり前の真実を知った。今までの他人への口出しは、自分の価値観を押し付けているだけだったのだ。そういった前提を踏まえた上で、チームメンバー各々の事情や希望を聴取し、それを調整し、チーム全体のレベルアップを目指す。その行為が面白かった

 

その後、僕は勉強会を立ち上げた。僕の出身大学は、比較的真面目な奴が多かったが、それでも、他の大学を飛び越えて最高を目指そうという機運はなかった。そこで周りの意志高い系の学生を口説き、コアメンバーとして発足させた。同学年だけでなく、他学年、最終的には他大学のメンバーも噂を聞きつけてはるばるやってきた。僕自身の情熱や想いが、他人に伝播し、人を動かしたのである

もちろん、痛い目にもたくさんあった。信頼されていた後輩から裏切られたときは、それこそ人生最大のダメージを受けた。彼女に振られたときの3倍ぐらい凹んだ。自分の情熱・思い・戦略がうまくいっていないことを端的に叩きつけられる衝撃は、並大抵ではなかった。

それでも、なんとかやり通せたのは、リーダーシップを発揮していると「俺がこの世に生を受けた価値があったわ・・・」という、えも言われぬ陶酔感をなんども味わうからだ。「憧れて見学に来ました」「もっと頑張ろうと思いました」「かっこいい先輩がいて幸せです」そんな言葉を聞かされると、身体の中心からパワーが爆発するのだ。これを一度でも味わうと、リーダーはやめられなくなる。教育の醍醐味というのも同じで、自分が教えた部下や後輩が、自分をきっかけとして行動が変わるのを一度でも見ると、身が入るようになる。そうか、俺はこのために生まれてきたのか・・・

 

そういった人を動かす喜びを体現してきた人生であったが、新社会人になってからはそうも行かなくなった。医学部を6年生で卒業し、自分自身の戦闘力が一気に極めて低い状態に放り込まれた。リーダーに必要なアルファマインドを、ひたすら削られる体験をしたのだ。社会の洗礼である。

そうして僕自身のウィルパワーというか、仕事に対する耐久力が極端に落ちてしまった。自身の手下がいない環境が多かったのだが、守るものがいないと、やり抜く力が落ちてしまうようなのだ。僕は自分が責任者として存在することで、自分のパフォーマンスを最大化できるタイプなのだ。一人で集中できるスペースを与えられ、コソコソ生きているだけではダメなのだ。

4年目になりつつある今は、そんな地獄の下っ端生活からも抜け出しつつある。苦い下っ端生活も、僕の視野を大きく広げる結果になった。学年が上がってきて、小さいながらも自分のチームを持つ機会がいただけている。これまでの巨大なビハインドを取り返すべく、今後は全力で頑張る所存だ。

 

自分はリーダーには向いていない、そういったことに興味がない、と決めつけている人もたくさんいるだろう。しかし、一つ確実に言えるのは「一回ぐらいチームのヘッドになる体験をしてみろ」ということだ。僕自身がそういったリーダーシップを発揮することが好きであるという兆候は、高校時代あたりからチラチラ見えてはいる。それでも、リーダーをすることのイメージと実際やってみたときの感覚は大きく異なる、というのが実感だ。

自分の適正を最終判断してしまうのは、一回やってみてからでも遅くはない。僕も自分でやってみるまでは自分がリーダーをやることが好きな人物だと、意識することなどなかったのだから。

 

その際に気をつけなくてはならないことがある。それは、リーダー業に本気で向き合う必要があるということだ。斜に構えて生半可にやるのではなく、少なくともその期間中は、目標に向かって貪欲に自分を追い込むことである。本気で取り組むと、なかなか他のメンバーがついてきてくれなかったり、リーダーの圧倒的孤独に荒涼とした気分に落ちることもあるだろう。そんな嵐のように過ぎ去る日々。それが終わった時に、自分がその体験を「とてもやりがいのある体験だった」と素直に思えるか。そこが明確であれば、何かしらの適正があると言えるだろう。

 

自分自身が一人で成長することに、どれほどの価値があるのか。

僕は、僕の影響力を無限に大きくし、この世に僕が確かに存在したという、爪痕を残したいのだ。

責任感を伴う「本番の戦い」だけが、真の成長につながるんだ

医師国家試験を合格し医師免許を取得すると、まずは初期研修医という身分になる。初期研修医は、医者ヒエラルキーの最下層に組み込まれるのだが、そこは腐っても医者だ。例えば検査の予定を入れたり、点滴や薬を注文(オーダー)することは、どれだけ医学的知識があっても、基本的には医師免許取得者しか法律上は行うことができない。なので、初期研修医の仕事量は意外なほど多い。

しかし、初期研修医は右も左も分からないカスなので、基本的に仕事内容は「医師免許さえあればバカでもできる」ような内容ばかりだ。この辺の話は以前記事に書いた。言われたことをひたすらこなし続ける。それが初期研修医に与えられた至上命令である。


しかし、あらゆるプロフェッショナルに共通することだが、プロとしての最初の登竜門は、「自分が独立してスキルを発揮し、仕事の結果に責任を持てること」にあるように思う。具体的には、外科医であれば自分の進んだ分野における標準的なオペを標準的なレベルでこなすこと。内科医であれば、入院・外来患者を、その場の医療資源に応じて自分一人でマネージメントすること。

自分の守備範囲において、その分野で期待される問題解決能力を自分一人で発揮すること。それこそが「プロフェッショナルの原点」であることに、異論はなかろう。

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さて、先に述べたように、初期研修医のトレーニングは文字通り奴隷業である。これをいくら続けていても、真のプロフェッショナルスキル「責任を持って問題解決に当たること」を身につけることはできない。

意識の高い研修医であれば、常に「自分がもしこの場に一人しかいなかったらどうしたか」というイメージを持ちながら日頃の仕事に取り組むことで、本番のシミュレーションを怠らないものだ。かくいう僕も1年目のヘタレの頃から、独立を夢見て日夜研鑽を怠らなかった。

そして、そういった意識高い系の若手の例に漏れず、1年目も終わりに差し掛かった頃には「いつでも独り立ちできるぜ」と鼻息荒く自惚れていた。直後、それが幻想であったことを思い知らされる事件が起こるのである。

 

1つ目は、初めて地方の病院で一人で当直した時の話である。研修医2年目の春であった。夜間休日に、「たった一人での病院勤務」を初めて行ったのである。先に結果だけ言ってしまうと、その時は患者さんが全然来ず、日夜通してものすごく暇だった。

僕のメインの研修先は、救急車が10台来たり、診療待ちが何人も溜まるような巨大な総合病院であった。なので患者数だけ比較すると「なんて楽な業務だ」と感じるかもしれない。しかし、その地方病院に勤務していた時は、心が落ち着くことはなかった。それはなぜか?

もし、小児の重症患者がきたらどうしよう」「もし、若いCPA(心肺停止)がきたら、ちゃんと蘇生できるだろうか」というようなイメージが拭えず、全く眠れなかったのだ。実際はそんなレアケースが地方の病院で発生することはそうそう無いのだが、どうしてもそういうナイトメアが振り払えない。結果的には、僕のキャパを大きく超えるイベントは何も起きなかったわけだが、その時体験した心細さだけは、鮮明に覚えている。

この体験を通して僕は、「情報を収集するだけ」と「責任をもって判断を下す」ことの間に、大きなギャップが存在することを痛感したのだ。

実際に、とある知り合いは「死にたい」ともらしていた中年のうつ病おじさんを、「特に今できることがないから」という理由で家に帰してしまい、帰宅2時間後に首を吊って心肺停止として救急搬送されてきたという衝撃の経験をしたそうだ。80−90のジジババは、元々身体のどこが悪いことも多いし、本人も家族も、いきなり死亡しても「まあおばあちゃん長生きだもんね」というノリで、あっけらかんとしているものだ。しかし働き盛りの40−50台の死は、家族にも、そしてなくなった本人にも、到底受け入れられるものでは無い。

 

さて話を戻そう。僕が、「本番の戦い」を意識したもう一つの例として、僕が2年目の後半にある専門内科をローテした時の経験を紹介したい。

そこの上司は、熱血漢だったがかなり人格的に問題のある人で、俺様スタイルを貫くオールドタイプであった。医者としての能力はすごいのだが、コミュニケーションに障害があり、他人との関わりが苦手で孤立していた。その科には比較的多くの重症患者が多く入院していおり、僕とその上司は日々刻々と変化する病状に合わせ、きめ細かい治療マネジメントを行なっていた。

ある日、事件が起こる。要の上司がインフルエンザに倒れたのである。入院するような重症の病人にインフルエンザをうつしてしまったら大事件なので、上司は自宅で療養することとなった。しかも運悪く、その時期は休暇シーズンであり、科全体として人手不足に陥っていた。インフルエンザ上司もインフルエンザ治癒後からのバリ島、というゴールデンコンボを決めていた。

僕は、その中で、重症患者の管理を一手に引き受けることになる。僕の判断が間違ったら、患者が重症化したり、本当に死んでしまう可能性がある。そのような状況に陥った時、やれることは2つ。逃げ出すか、ひたすら本気になりガムシャラに頑張るか、である。

持ちうる限りの知識を動員し、海外文献などの調べ物をしまくり、知り合いの他科の医者への相談も躊躇している場合ではない。毎晩夜遅くまで考え抜き、休日も気になって見に来るようになった。毎日冷や汗ダラダラであったが、この経験は僕を大きく成長させた。

 

さて、これら2つの経験は「最終責任が僕自身にある」という意味において、同様のイベントであると言えないか。このような状態にある時、僕自身は圧倒的な危機的感情を抱きつつ、どこかでそれを楽しんでいたのだ。これがマジになるということか。それを垣間見る貴重な経験だった。

 

「こうすれば良いと思うのですが、どうでしょうか?」と「責任を持って判断を下す」ということは、最終的に同じ結論に至るとしても、本人の本気度と経験値は大きく異なる。

トレーニングの最終目的は、良いプロフェッショナルとして独立することだ。その為に必要な物は「自分の判断基準」と「覚悟」。それを養うための研修である。自分だったら何を根拠に決断するか。その論理展開・判断基準を身につけることこそが肝要なのだ。そのために出来ることは、ひたすら修羅場をくぐる以外にはない。

逆に、間違った判断を積み重ねても変な自信だけついてしまいダメダメである。常に自分の限界を知りつつギリギリの戦いを続けることが、プロとしての成長を最大化するのだろう。

 

部下を教育をする立場の場合においてはどうだろうか。このシチュエーションでは、部下の目標設定のうまさに、上司・教育者としての能力が反映されるように思う。

アメリカでは、レジデント(卒後3年目。日本だと5年目相当)だけの判断で、患者の治療方針を決めることはルール上できない。必ず、研修を終えた指導医のチェックが入る。何かを判断するにしても、必ず伺いだてをしなければならないのだ。医療安全の意味では良いことなのだろうが、そのシステムが個人の成長に最もふさわしいかというと、それは疑問だ。

部下をギリギリの谷底まで追い込みながら、間違った仕事をさせない。そのスーパーバイズ/放置プレイ、のバランスに、成人教育のキモがあるように思えてならない。

 

君は修羅の道を進む覚悟はできているか?

俺はできている。

なぜ医者は金の話をしないのか

医師の達也です。

諸事情により、現在の僕の基本給はその辺のOLと同じぐらいになってしまっている。しかも今年度は非常に出費が多く、僕の収支は圧倒的なマイナスだ。そこで、副収入を得るため、平日の夜間や土日に医者バイトを行い、収入を増やしているわけだ。

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僕はお坊ちゃんであるせいか、今までの人生であまり金を意識しないで生きてきた。そして社会人になり、お金のことを考えずに生活していると、借金が増えたり、支出が分不相応にふえてしまうことが多くなり、結果的にキャリア上でも損をしてしまうことがわかった。お金の仕組みや税金のシステムを人並み程度に知るとは、豊かな人生と大きな野望を叶えるために、極めて重要であると痛感したのだ。

では僕以外の医者はその辺に意識的かと言うと、どうもそうではない。

医者に共通して欠如している能力として、お金に関する知識、俗に言うファイナンシャルリテラシーが挙げられる。医者の懐事情は「普通に生きてたらお金が貯まっていた」「普通に生きているけど、お金がない」の2パターンがほとんどである(特に若い医者)。これは元々の金銭感覚の違いに起因し、各個人のお金に対する知識の差では無いと考えた方が自然だ。

医学部は理系で最も優秀な学生が集う場所であるはずなのに、なぜこのような事態になっているのか?それは医学部がほとんど医学の専門学校のような場所となっており、医学以外の学びはほとんどないから、と言うのも一因だろう。

だが、それだけとは考えにくい。僕が医者にファイナンシャルリテラシーが育たない要因として一番大きいと考えるのは「者はそもそもお金に困っていない」と言う理由である。

これは、研修医1年目の平均年収は400−600万円であり、普通に独身で生活していればほとんど困ることがないことからも推測できる。おまけに結婚した場合、医者の結婚相手のほとんどは医者か看護師なので、相手もそれなりにいい稼ぎである。なおさらお金に困らないのだ。

僕も経験してわかったことだが、人はプロブレムが起きない限り、興味があること以外のことは学ぼうとしないものだ。単位取得のために勉強が必要だから、お金に困っているから、という状況でない限り、わざわざお金の勉強をしようとは思わない。

医者をしていると、謎の不動産斡旋業者や税金対策の勧誘電話がしょっちゅうかかってくる。こんな怪しい電話に引っかかる奴はいないだろうと以前は思っていたのだが、どうもそうではなさそうだ。

3年目になると、知り合いの知り合いぐらいの距離で、時々「資産運用」と称してローンを組んでマンションを買う人が出てくる。もし勉強して買ったのなら個人の責任だろうが、もし詐欺まがいの商法に引っかかって買っているのだとしたら目も当てられない。

 

医者がお金の話をしたがらない理由としてもう一つ考えられるのは「金をたくさん稼ぐこと=悪」と言う認識がデフォルトだからだろう。

医者が稼ぎを増やすには、雇用形態を変える(常勤・非常勤など)、基本給をあげる(年功序列での昇進)、バイトを増やす、開業する、がほとんどだ。

ここで重要なのは、医者界の「世論」を生み出すのは、大学病院などのアカデミアに所属する医者であると言うことだ。そして、そういった職場は基本給が非常に低いことがほとんどである。基本給だけでは家族を養いつつリッチな生活が出来ないので、バイトや外勤を行う必要が出てくる。

問題になるのが、大学病院で長く所属している場合、歳を重ねると、体力的・時間的制約でバイトや外勤の頻度は下げざるを得ないことだ。昇進して基本給がちょっと上がっても、元々の収入のメインが外勤・バイトなので、年数を経ると収入はむしろ下がっていく。土日に家族サービスが入ったり、平日夕方に委員会や会議が入って忙しくなればなるほど外勤には行けなくなり、上司よりも部下の方が給料は高いという逆転現象が起こる

要するに大学病院で働くことは、大学内の昇進や基礎研究への興味>>収入、という人しか続けられないはずなのだ。しかし、それを声高に叫ぶと大学医局のテンションが下がるし、多くの人間はそう行った割り切りは出来ない。

そのような事情で医者は、お金を稼げばえらい、という風には(少なくとも建前上は)評価しないようになっている。偉さとは、大学医局での出世だったり、論文の投稿数だったり、勤務年数だったり。そんな瑣末なことで妬まれたり尊敬されたりしている。医者は、藤沢所長の言うところの「権力を取り合う仕事」の典型なのだ。

 ある程度歳をとった大学病院医師が、権力闘争に敗れた場合、再チャレンジしたり別のアカデミアヒエラルキーに移らず、市中病院の重要ポストに異動したり、開業したりするのはそれが理由の一つなのかもしれない。

まとめると、医者があまりお金の話をしない理由は「語れるほどの戦略がないから」と「お金を追求すると自分のレゾンデートルが毀損されるから」と言うのが僕の結論である。

 

ところで、僕がお金に興味を持ってから、身近な医療者に各々の経済事情を聞いて回ると言う悪癖が生まれた。しかし、これは多くのフォロワーの皆さんにお叱りを頂き「絶対やってはいけない」であると勉強した。初対面の女の子に、いきなり経験人数を根掘り葉掘り聞くようなものだ。

今はそう言った話題を相手側から振ってきた場合にのみ限り、ディスカッションを行うように注意している。

なぜ日本の医療は、これほどまでに診療レベルに差があるのか

どうも達也です。

前回の記事でも紹介したが、僕の懐事情は圧倒的なマイナスとなっている。そこで、医者としての実力を磨く目的と小銭を稼ぐために、休みがある日には医者バイトを行っているのは、以前からお話しさせていただいている。

そうして数カ所の病院に勤務してみたわけだが、そこでよく言われた言葉がある。特に地方で顕著だったのだが、バイト先の医療スタッフに「すごい優秀な先生が来た!」って驚かれることが非常に多いのだ。

僕としては、僕自身は「どっちかといえば優秀だが、そんなに突き抜けてもいない」と自己評価していたので、ごく普通の対応をするだけで、このように言われることにとても驚いた。

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いろいろな勤務先で、さまざな初期研修医から、医者歴40年のベテランとも接する機会がたくさんあった。この経験を通し、ある結論を出した。

それは「現状では日本の医療には、診療レベルに思ったより大きなギャップがある」ということだ。そして、ふと疑問に思った。日本の医療に、質を担保するシステムはあるのだろうか?と。今回はこの件に関して考察してみたい。

 

理想の医療「標準医療」とは何か

まずは、良い医療とは何か、ということを考えてみたい。結論から言うと、医学的な側面のみを考慮するなれば、ベストの医療は「標準医療」である。

「標準的な医療」と聞くと、あまりピンとこないかもしれない。実際に、現場でも誤解されがちである。標準医療を「程度の低い医療、工夫のない遅れた医療」と考えるのは間違いである。標準医療とは、現段階において、様々な研究結果を統合した結果、ベストと考えられている治療のことを指す。

なので例えば「お金がたくさんあるので、標準治療よりも良い医療を提供してください」という願い出があっても、標準医療の定義が「現段階でベストと考えられる治療」のことなので、それ以上お金を積まれても、何もすることはない(治験もあるが、これも金は関係ない)。

標準医療は常に日進月歩である。科学的にインパクトのある研究が出た場合、場合によっては治療内容が180度変わることも稀ではない。標準医療を提供し続けるには、常に勉強と自己研鑽を行う必要があり、かなりの努力が必要であると理解してほしい。

そういう意味では、どれだけ他の人と同じような標準的な医療が提供できているのか、もし標準から外れるのであればその論理的な理由づけは妥当か。そこに、医者仕事の医学的側面の巧拙があると言えるだろう。

臨床医に、独創性は求められていないのだ。

 

ダメ医療が提供された場合、実際患者にどの程度デメリットがあるのか

僕もそれほど多くの病院での勤無経験があるわけではないが、その数少ない経験に照らし合わせて見ても、10年前の治療を堂々と提供するダメ病院もあれば、常に海外の文献と日本の現場での経験を組み合わせ、標準医療を提供するため努力し続けている素晴らしい病院もある。その提供される医療の病院間でのギャップの大きさは、実際には医療関係者にしかわからないだろう。

そして、世の中にはびこる病気の99%ぐらいは、ちょっと間違った医療をするだけでは治り方が変わらないのも、重要な点である。

例えば、風邪やインフルエンザに特別な理由がないのに抗生物質を出すのは、標準医療としては明らかな間違いではある。しかし別に風邪に抗生物質を出しても風邪は治るので、患者本人はそのデメリットに気づかない。まあ実際には、不要な薬剤アレルギーのリスク、腸内細菌が乱れて下痢が起きる、耐性菌の出現、といったちゃんとしたデメリットは存在するのだが、それらもほとんど起きないので問題にはなりにくい。

また、仮にデメリットが起きたとしても、患者がそれを「標準医療から外れた医療を提供されたため」と考えることは、ほぼあり得ない。多くの場合、病気になることは患者にとってレアイベントであるので、比較対象がないのだ。下痢が起きても「こんなもんかな」と思って終わりである。

現代の標準医療に照らし合わせて、遅れてたり間違っている医療を提供するデメリットは医学的にはあるのだが、マイナーだったり分かりにくい、というのが僕の感想だ。 

 

医療訴訟に関して

患者に重い障害が起きたり、亡くなってしまった際、患者や家族がその結果に納得していない場合は医療訴訟に発展するケースがある。そして医者の診療内容が論点としてあげられた場合、その内容の是非を評価するのは、外部の医者になる。その時に、いかにその提供した医療が、今日レベルの標準的対応に近いか、そこがポイントとなる。

つまり、そういった訴訟リスクを考えると、標準医療を提供する努力は、どの医者も当然行うべきだと考えられる。

 

しかし、訴訟大国アメリカにおいて、訴訟問題に関する興味深い報告がある。

医療訴訟につながる場合で最も多い根本原因は、「患者や家族とのコミュニケーション不足」が圧倒的であるというのだ。そこでは、「提供された医療の妥当性」はあまり関係ないとのことだ。医療訴訟を回避する上で一番大事なのは、患者や家族に恨まれないようにする徹底した根回しなのだ。

またこれは想像だが、ホメオパシーやヘンテコ免疫療法などに代表される、代替医療が訴訟になりにくいのは、患者関係が良好なことが多いから、というのもあるのかもしれない。

 

医者が、診療技術を磨くインセンティブはあるのか

ところで、訴訟が起きなかった場合は、変な医療が提供されていないか他の医者がチェックするシステムは無いのだろうか。

基本的に医者は、大きな問題が起きない限り、他人の診療に口出しすることはない。つまり、医療の妥当性をチェックする機構は(僕が知る限り)ない。問題にとして表出するときは、それこそ裁判沙汰になったり、家族がキレたりした時に限られるのだ。ちなみにアメリカではPeer Reviewという、同僚が診療内容を相互チェックするシステムがある。

 

では、金銭はどうだろうか。優れた医療を提供すれば給料が上がり、ダメ医療を提供したら給料が下がる、というシステムは誰もが考えつくだろう。

しかし、これも余り期待できそうにない。医者の収入に一番大きな影響を与えるのは勤務形態である。開業で平均3000万弱、勤務医は1500−2000万ぐらいである。勤務医の場合、給料は当直回数とポストで決まる。ポストはほとんどの場合年功序列だ。

ちなみにに医者バイトも、勤務の日程や時間で給料が決まっているので「いい医者」でも「悪い医者」でも、収入は変わらない。それは以前以下のエントリに記した。

ダメ医療を提供したらそれにより給料が下がる、みたいなことは(少なくとも僕が知る限りでは)ない。開業医に関して言えば、診た患者の数と薬や検査の処方数によって収益が増えるので、逆効果の可能性が高い。

日本の医療では、より良い医療へのインセンティブは、就職先の雰囲気と個人のプロ意識。それだけである。

 

それでも日本の医療は回っていく。初期研修はちゃんとしたところで

以上の議論から、医者が診療技術を磨くこと自体の拘束力は、非常に弱いことがお分りいただけたと思う。しかし、日本人は元来真面目なので、このような個人の努力に大きく依存したシステムでも、プロフェッショナリズムに基づき陰口や不満を漏らしながらも、それなりに妥当性のある医療が全体としては提供されて来た。

そしてこの構造からわかることは、卒後1、2年目という、医者としての基礎を学ぶ時に、職業倫理の緩い職場や、間違った医療を平然と行う場所に違った診療態度を身につけてしまうと、それがその研修医のスタンダードとなってしまい、ダメ医者真っ逆さまになってしまうということだ。

実際に問題も起きている。有名なのは、効果が保証されない代替医療を、末期がんの患者に提供し、多額の収入を得ているようなクリニックだ。最近はメディアで取り上げられ、あまり表には出てこないようになったが、最近ではターゲットを中国人に代表されるアジアの富裕層に移している。

 

「突出した実力を身につけても経済的には報われないが、それでも最低限の医療できないと、世の中が困るよ」というのが、僕の暫定的な答えである。

お金を増やす事はまず自分の現状を認識することから始まる、家計簿のススメ

どうも医師のTatsuyaです。

人間、誰しも生きていれば、お金を使います。自分のお金を管理する必要が出て来ます。

社会人になってから、研修医という、まあまあ収入のある身分を送っていました。しかし、僕が2年間の地獄のようなトレーニングを送った後、3年目に新天地への引っ越しを行った後の貯金額は、なんとわずか10万円でした。「車を買ったわけでもなく、マンションを購入したわけでもないのに、なんでこんなに金が無いんだ?」と衝撃を受けたことを覚えています。

そうして医者3年目となり、医者バイトも始め、月収も乱高下を繰り返しているわけですが、奨学金やら借金やらカード支払いやらで、「ぶっちゃけ俺って金あるのか無いのかどっちなん?」という状態が最近まで続いておりました。

 

そう。やっと気づいたのです。僕は日々の生活の中で、自分の資産の全体像がよくわかっていなかったのです。今までの人生で、僕の頭の中にあったのは「財布の中身・カードの支払い予定・銀行預金」の3つだけでした。それ以外の借金や資産に関しては、全く意識しないで生活していたのです。

上の「研修医終了時の資産は10万円」という発言に戻ってみます。よくよく考えてみると、+10万円というのは間違いです。僕は学生の頃に無利子の奨学金を借りていましたし、他にもお金を借りています。その額は当時で220万円弱でした。「達也の収支」と考えるのであれば、正しくは「研修終了時はー210万円」ということになります。

 

僕自身は育ちがお坊ちゃんなので、「節約=偉い」という発想がありません。良いもの、美味しい食べ物に、それに見合った額を出すのは当然と考えてます。逆に言うと、普通に生きているだけで(本人は贅沢していると思っていない)、かなりの出費となってしまうのです。

僕の出費は「衣服・食事・移動費」でほとんど全てでした。ここからわかるのは、もし僕がダサい格好をして、食にこだわりのないキモい奴になれば、出費はかなり抑えられ(他に旅行や車などの変な趣味がなければ)どんどんお金が貯まって行くと言うことです。

 

逆に言うと、僕は「お金を意識しないで普通に生活」しているだけでは、お金が貯まらない人間なようです。常にカッコよくして女の子にモテたいし、美味しいディナーや酒を楽しみたい。しかも、こういった行為をやめてしまうと、すぐに平均的な欲求不満の輩(Average Frustrated Chump)に仲間入りするのは必定です。

とは言っても、常に自分は「ー200万だ」と考えていれば、振る舞いも少しは変わってくるでしょう。ボーナスや臨時収入が入っても、「50万円を余分にゲット!Yeah!」ではなく「−200万が−150万になりました。そうですか」という気分になります。ワインボトル頼んじゃうか!と普段ならなるところ、どうせ全部飲めないのだからグラスで我慢しておこう、となります。

 

ちなみに借金に関しては無利子であれば、別に急いで返す必要無いじゃん、と思っていましたが、どうもそれも違うようです。この辺の話は、前回開司が説明してくれました。

 

では自分の収支を把握するにはどうしたらいいのか。すぐに思いついたのが家計簿をつける、ということでした。最初は紙の家計簿帳や、エクセルのプログラムを考えていろいろ調べていましたが、どれも非常に面倒そうで、躊躇しておりました。

その心境をツイッター上で吐露したところ、馬神傑さん(@party_hero_star )という投資銀行にお勤めの方が、Zaimという家計簿アプリを紹介してくれました。

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 家計簿をつけると、自分が実際どれだけ使っているのか、今現在の資産はどれだけあるのか、わかるようになります。

このアプリのすごいところは、クレジットカードと銀行口座から、自動的に家計簿をつけてくれることです。日時や金額はもちろんのこと、使用用途の振り分けも、同じような用途の過去歴があれば、勝手にやってくれますし、かなり正確です。Amazonに代表されるECサイトのアカウントも登録可能です。

特に効果があるな、と思ったのが、クレジットカードを使用したらすぐに支出として計上される点です。クレジットカードは、その支払いが翌日や翌々日になるので、あまり「出費がかさんでしまっている」と言う感覚を得にくいです。その点、家計簿アプリの使用すれば、常に月間や週間の出費が把握できるようになります。

使用する上のポイントとして「自分の借金や車のローンなどの大きな額の借金を含め、自分に関わるお金の全て」を登録する事です。こうする事で初めて「自分の総資産を意識できている」状態になることができます。

 

家計簿への記帳が継続できない一番大きな理由は「めんどくさい」からだと思います。しかし、クレジットカードとネットバンクがあれば、現代ではアプリが自動的に記帳してしまいます。

僕は自分のキャッシュフローを数値やグラフで見ることで、初めて「自分自身のファイナンス状態」が少しわかった気がしました。ポルシェの中古車市場カーセンサーで毎日見てる場合じゃなかったと、猛省しております。

Zaimは、月数百円で有料会員になることができます。有料会員になると、金融機関からのデータ取得の頻度が増し、また手動でもできるようになります。僕は常にリアルタイムで自分を戒めるべく、有料会員になっております。

さて、僕は家計簿をつけて2ヶ月のド素人であり、またZaim以外のアプリは使ったことがありません。なので、Zaimの他のアプリに対する優位性は特に知りません。

また、僕は株などの資産は持っていませんので、この辺がからんだ場合の家計簿に関してはよく知りません。黒字化を果たすことができたら、考えてみようと思っています。

無利子だったら、奨学金の返済は遅らせた方が良いんじゃね?

開司です。

医学部の奨学金をまだ完済してない。無利子なんだけど、これって返済を出来るだけ遅らせる方が得なのかな??」

仕事中のある日、Tatsuyaから届いたLINEでした。

私はすぐに「相手の気持ちが変わらないうちに、早めに返した方が良いのでは?」と答えました。

しかし彼は、いまいち納得のいかない様子でした。

ファイナンスの理論上、これはどう解釈するのか、ということが知りたい」とのこと。

今回はファイナンスの「お金の時間価値」「リスクとリターンの関係」の概念にもとづき、この問いに答えることにしたいと思います。

 

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1. ファイナンスの目的は何か

そもそもファイナンスとは何か、ということについてですが、ファイナンス関連ポータルサイトのInvestopediaによると次のように定義されています。

Finance describes the management, creation and study of money, banking, credit, investments, assets and liabilities that make up financial systems, as well as the study of those financial instruments.

(Financeとは、お金、銀行、与信、投資、資産、負債が形成する金融システムについての、またそれぞれの要素についての研究、創造、マネジメント活動のことを指す)

出典:Finance Definition | Investopedia

要するに、キャッシュ(現金)のマネジメント活動のことです。また、そのための理論を研究する学問分野の意味でも使われます(カネを「創造」するのは投資銀行、証券会社等の金融機関です)。

よくファイナンスと言うと、資金調達としての借入や出資引受を想起される方が多いですが、その目的はキャッシュのマネジメントを行うことなのです。

Tatsuyaの場合は、すぐに自分自身で学費を払えないことから、又は両親の出費負担を減らすということを目的に、奨学金という資金調達を行ってキャッシュマネジメントを行っているということです。

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(※画像出典サイト)

2. お金の時間価値に関する基本的な考え方 

お金のマネジメントとしてよく実施されるのが、資金調達、即ち借金や出資受け入れが挙げられます。

借金する場合でも出資受け入れする場合でも、ファイナンスの考え方としてお金の時間価値という重要な概念を考える必要があります。

(1) お金の将来価値

お金の将来価値とは、文字通り将来自分が手にするであろうお金の価値、その金額のことを指します。

例えば、ある事業に投資をするときに、5年後に1億円儲かるという事業計画を作ったとすると、「この事業の5年後の将来価値は1億円」とか表現するわけです。

会社が中期経営計画を策定するときには、今後3年間にどれだけ儲けるかということを考えるわけですが、それぞれの年度に計画しているフリーキャッシュフロー企業価値がその会社の将来価値になるわけです。

(2) お金の現在価値

今手元にあるお金、若しくは目の前にある商品の値札に書いてある値段、それを現在価値と呼びます。

今現在、自分にとって特定のモノ・コトがいくらなのか?ということを現在価値は示しています。

「何をさっきから当たり前なことばかり言ってんだ」と思われるかもしれませんが、実はそんなに単純でも無いのです。

(3) 将来価値と現在価値の関係

例えば、とある銀行で顧客に融資するだけの預金の集まりが不調で、普通預金金利を年間10%にすると発表したとします(三菱東京UFJ銀行は年利0.001%ですのでかなり高いです)。

あなたはここに100万円預けたとすると今後5年間の預金は下図のように増えていくことになります。

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1年後の110万円、2年後の121万円・・・5年後の161万円がそれぞれの、あなたのお金の将来価値になります。

各年度将来価値の計算式は、0年度の100万円を現在価値とした場合に、

FV=PV×(1+金利)^年度

※FV:将来価値

  PV:現在価値

  ^:   べき乗

となります。

方程式の解き方がわかる方であれば、式を組み替えることで現在価値がすぐに求められると思います。

即ち、現在価値とは将来価値を金利(割引率といいます)で割り引いた金額のことをいうのです。数式で言うと下記の通りです。

PV=FV/(1+金利)^年度

つまり、5年後の161万円を上記数式に当てはめると100万円となり、このことを「年利10%の場合、5年後の161万円の現在価値は100万円である」と言えるのです。

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もちろんそれぞれの年度に当てはめても現在価値は100万円になります。金利(割引率)は将来価値と現在価値をつなぐ架け橋的な役割を果たしているのです。(参考:現在価値と将来価値 | オントラック

ちなみに日本にこんな高金利な銀行預金サービスは絶対にありませんが、その理由は90年代の景気低迷以降に、政府が対策として企業への融資を低金利で行えるようにし、投資を促進した為でした。

(参考:日本はなぜ低金利? 定期預金のしくみを基礎から学ぶ

(4) お金の時間価値とは

以上のことから、お金の時間価値を通じて次のことがいえます。

  1. 今ある100万円と5年後の100万円は等価ではない
  2. 将来価値は金利(割引率)を用いて現在価値化できる
  3. 時間が経てば経つほど将来価値と現在価値の差が大きくなる

僕は医師のTatsuyaにファイナンスの本を勧めていました。なので彼もある程度の知識を身につけているはずです。そこで、上記1-3の理由により「金利があるから借金は早く返した方が良くて、自分の場合無金利だから返すのを遅らせる方が得なのでは」と考えたのだと思います。

確かに、時間価値の概念に照らし合わせれば、自分の手元に返済しないだけお金が残るわけですから、返済を遅らせる方が有利なわけです。

金利も無く、単に自分に変わらない負債が残るだけですから、借金は増えも減りもしないはずです。

3. リスクxリターンの関係性

ですが、お金の貸し借りに関して、上記の議論では重要且つ超基本的なことが抜けております。

それは「リスクxリターンの関係性」です。

(1) 年利10%の銀行に預金するリスクとは

思い出していただきたいのは、先程の銀行が高金利で預金者にお金を還元してくれたのは、その銀行にお金が無かったからです。

ですが、そんな宣言をしている財務体質の危うい銀行であれば潰れるリスクだってあるわけです。

つまり、高金利の理由はそれだけ預金者にリスクが伴うからです。

したがって、リスクの大きさに応じて金利(投資家が求めるリターン)は変動するのです。

(2) ソフトバンク社債から考えるリスクxリターンの関係性

ソフトバンクはモバイルの半導体の設計を行うARMホールディングス社を3.3兆円で買収し、この資金の一部を賄う為にハイブリッド債(劣後特約付社債)の発行しました。

この社債は25年償還で最初5年間は年利約3%で発行しています。

私は社債金利情報には疎いですが、個人投資家に対してこれを「高金利な債券」として主幹事会社のみずほ銀行が売り込んだことで当初は710億円と好調な売れ行きを見せたそうです。

ですが、プロの機関投資家にはこの社債はとんと売れませんでした。その理由は、ソフトバンクのリスクとこの利率が合っていないからでは無いかと言われています。

(出典:売れないソフトバンクの社債 | オントラック

ソフトバンクは常に巨額の投資を行っており、過去4年以上フリーキャッシュフローがマイナスです。

借金の返済の元手となるのは、企業で言えば自社が自由に使えるお金、即ちフリーキャッシュフローなのです。

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(出典:ソフトバンクの行く末 | オントラック

一方で、現在の長期有利子負債が2014年3月期以降8兆円を超え、2016年3月期では9.3兆円にまで膨らんでいます。

いくらソフトバンクとはいえ、10兆円近くの借金を、返済の源泉となるフリーキャッシュフローがマイナスとなっている現状には、たしかに多くの投資家はリスクは大きいと見るのも納得がいきます。

つまり、ハイリスクのときにはハイリターンを求める、これも確かにファイナンス理論上説かれていることです。

4. Tatsuyaの問への回答

長々来ましたが、Tatsuyaへの答えとしては「確かに時間価値の考え方に照らせば、返済を遅らせる方が良いという判断になるが、貸し手の立場で見れば返済が遅れることが大きなリスクであることから、借り手にしてみれば追加リターンとして金利を求められるリスクもあり得る為、返せる時に返した方が良い」ということになるでしょう。

非常に当たり前なことですが、こういった理論で持ってファイナンスはお金をマネージする方法を説いているわけです。

何にしても、借りたお金は早く返すに越したことはなさそうです。

参考図書

ファイナンスの内容は確かにややこしい。

そこでわかりやすい参考図書を幾つか紹介しますので、興味のある方は読んでみてください。

初心者編

道具としてのファイナンス

道具としてのファイナンス

 
ざっくり分かるファイナンス 経営センスを磨くための財務 (光文社新書)

ざっくり分かるファイナンス 経営センスを磨くための財務 (光文社新書)

 

 商社マン含め、ファイナンスに多少関わる人からはバイブルと崇められている書籍です。先程からリンクを張って引用元としてお世話になっているのがこちらの著者です。

モルガン・スタンレー投資銀行部門出身、今ではSmartNews社のCFOでエクセル資料の作り方に関する下の書籍で売れっ子となった熊野整氏も、モルスタ時代に「道具としての…」を読んでファイナンスの基礎を身に着けたんだとか。

中級者編

ファイナンシャル・マネジメント 改訂3版---企業財務の理論と実践

ファイナンシャル・マネジメント 改訂3版---企業財務の理論と実践

 

「道具としての…」を読み終わった上で、よりファイナンスの理論について理解を深めたい、という方にはロバート・ヒギンズ氏のこちらがおすすめ。

これもだいぶわかりやすく書いてありますが、米国のビジネススクールで使用するテキストということで、多少基礎的な知識が無いと辛いでしょうか。個人的に面白かったのは最後の補講のベンチャー投資におけるValuation方法です。あまり他でベンチャー向けのValuationについては見たことが無かったので。

上級者編

企業価値評価 第6版[上]―――バリュエーションの理論と実践

企業価値評価 第6版[上]―――バリュエーションの理論と実践

 
企業価値評価 第6版[下]―――バリュエーションの理論と実践

企業価値評価 第6版[下]―――バリュエーションの理論と実践

 

 言わずと知れたマッキンゼーのコーポレート・ファイナンススペシャリストが表した書籍。

とりあえずM&Aやるんだったらこれ読んどけ的なものなのですが、いかんせんアカデミックな要素もあることから、いきなり読む人にはとっつきづらいです。

1990年の初版以来、何度も改版を繰り返すうちに上下巻とも分厚くなっておりますので、内容豊富な最新版を読まれることをおすすめします。

 

今回は、少々固い内容となってしまいましたが、あまり知識のない人にもわかるように頑張って書いたつもりです。

それではよいお年を。