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若手医師と商社マンが最強を目指すブログ

平成生まれの帰国子女である3年目医師と4年目総合商社マンがそれぞれの最強への道を虎視眈々と狙う

大学院に落ちた医者には、何が待ち受けているのか

それは唐突であった。

関東のとある大学病院の某内科医局に所属している知り合いから、下記のLINEが届いた。

大学院落ちたわw 

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大学院というのは、医学部を卒業し医師免許を取得し、初期研修を終え、そこからまた暫く臨床医として活動した後、主に研究の目的で入学し博士号を取るために通う場所である。所属医局の大学院に進むことが多い。

大学院に進学するに際して、試験(院試)を課す場所がほとんどのようだ。僕は実際には試験問題は見ておらず口頭で試験内容を聞いただけであるが、それは驚くほど中身の薄いものであった。詳細についてはプライバシー保護の観点から、この場に記すのを避ける。

基本的に受験者のすべてがほぼ自動的に合格するのが慣習なようだが、最近は安定志向の若者が増えていることもあり、大学院受験も難化しているとのことである(実際に彼も落ちた)。

 

医者の大学院生活に関して記す。 

晴れて大学院生になった後は、3−4年間研究を続けることになる。近年は若手医師は医局に所属する人が減ってきているので、あまり大学院に行く人は多くない。詳細は後述するが、学位を持っていても、基本給が上がるわけではないし、箔付けに多少効果がある程度である。

大学院に進むと基本給はほぼ0となり、逆に授業料(私立であれば年間100万円程度)を支払うハメになる。大学院生になる医者の年齢は、卒業後3−10年目(20代後半30代前半)がほとんどであり、所帯を持っている人も多い。収入が0では生計が立てられないので、研究の空いた時間に夜間・休日バイトを定期的に行い、それを収入源とするのが一般的だ。無論、大学院に給料が上がることを期待して進学する人は通常は居ないし、医者のバイト代はとても高い

3年間の院生生活を終え、論文が受理されたら、めでたく医学博士となる。医学博士号自体は、じつは大学院に進学しなくても取得可能であり、これは俗に論文博士と呼ばれている。しかし、論文博士と正規の博士号には扱いに微妙に差があり、箔付けパワーは論文博士のほうが劣る。これは旧帝大などの権威思想の強い医局で、講師以上に昇進する際の条件を正規の博士号に限定する、というところが少しあるというようなもので、瑣末といえば瑣末な話だ。

その後は「お礼奉公」という名目で薄給の病院行かされることが多々ある。世の中には医者にとって仕事が面白くない病院というものが存在し、例えば以前の記事で紹介した日進月歩する標準医療とは程遠い、くたびれた偉そうな顔をするロートルたちが、ただ踏ん反り返っているような病院である。そういった場所で医者をやっていても、医者としての仕事力は全く向上せず、やりがいもほぼ感じない。

なので、普通の感覚ならそういった病院で働きたくないのが人情なのだが、たまたま自分の大学病院の医局がそういった病院も支配下に置いている場合、教授は手駒の中から誰かを派遣しなくてはならない。そこで白羽の矢が立つのが、大学院を終えたばかりの医者である。大学院に行かしてもらったお礼の名目で働く(奉公する)、つまりお礼奉公だ。

 

さて、大学院に落ちてしまった彼の話に戻ろう。

大学院に落ちたら、恥ずかしくて、そのまま同じ医局に在籍し続けるのは困難だと思っていたのだが、意外にも彼はそのまま継続して所属するという。医局の駒としてしばらく支配下にある市中病院(お礼奉公で行くような病院ではなく、もっとまともな病院)で働くつもりだそうだ。そのような忙しい職場でトレーニングをし、開業準備をすると言っている。当然お礼奉公はせず、これまでと同様に臨床のスキルアップを目指すらしい。また、幸い彼にはこれまで勤めた病院での修練で、多少の専門的スキルを身につけており、それらを売りにして他病院で比較的割のいいアルバイトも行えるようだ。

医局内での昇進以外、ほとんどキャリアに影響しない学位に翻弄されるより、今回大学院進学に失敗したことで、その未練をスッパリ切ることが出来た。これからは学位にとらわれずに、シンプルに自身のスキルアップや日々の生活の質の追求に邁進する。

そう、力強く話していた。

 

博士号とは足裏の米粒」と良く言われる。

曰く、必ずしも取る必要はないが、取らないと気持ち悪い、という意味である。

彼の今後の活躍に期待したい。

なぜ都会の勉強会はキモオタばかり集まるのに、そこそこ盛り上がるのか

どうも医師のTatsuyaです。

ここ最近、職場以外での交流やコネクションを作るため、若手医師や医学生が集まる勉強会に立て続けに出席している。これは学会などの正式なアカデミックな場ではなく、やる気のある学生や若手医師が自主的に開催し、手作りで運営しているイベントである。場所は主に東京や大阪で、大学医学部の教室や、市中病院の会議室を使って行われている。

以前書いたことだが、僕も地方大学医学部に在籍していたとき勉強会の立ち上げと運営を行っていた。なので「都会で他大学とコラボしながら行う勉強会は、一体どんなレベルなのだろう?」と心を踊らせて参加した。

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しかし、そこには圧倒的な失望しか存在しなかった。

デブ、チェックシャツ、リュック、ださいランニングシューズ、pikoのパーカー。どうしてこうも運営側の人間が、ダサいキモオタやデブやイケダハヤトばかりなのか。肝心のプレゼンも、どれも眠くなるような主観的な戯言をだらだら述べているだけ。スライドづくりの最低限のガイドラインも尊守されておらず、人の時間をいただいてるという責任感を、全く感じることができなかった。

周りにおだてられて、ちょっと背伸びして参加しました。プレゼン慣れてないのですいません」などと、甘い戯言を開始前にのたまっているような幼児性の抜けないやつばかりで、少なくとも、社会人が時間を作って参加するようなレベルではまったくなかった。

しかし驚いたことに、適当に開催している割には、かなりの数の参加者が来ていた。これは意味不明であった。一体都会の医学生はどんだけ暇なのか・・・?他にもっと面白いことが山ほどあるだろうに。

 

僕の体験を記させてもらう。
僕の在籍していたとある地方大学は、医学科・看護科の単科大学であり、最寄りの他医学部までは車で2時間以上という有様であった。なので、基本的に自分の大学内からメンバーを募集する必要があった。

もともとモチベーションの高い大学ではなかったため、勉強会の運営メンバーや参加者を集めることはとてつもなく大変だった。その際に最も気にしていたことは、勉強会の中身ももちろんだが、何よりオシャレでかっこいい勉強会にすることであった。そのためには、まずは常連参加者と運営者が、圧倒的なかっこいい存在になることが必要だった。「あの会は、ただの勉強オタクではなく、留学や英語もできて、しかもモテる人が集まっている。最強を目指すメンバーの集いなのだ」そのような雰囲気作りが求められていたのだ。

先も書いたが、勉強を頑張る人というのは基本的にキモオタなので、勉強できるやつばかりで参加者のセレクションをかけると、ただの「キモくてモテない会」に成り下がってしまう。キモオタのみをターゲットにしていると、nが少なすぎて会が成立しなくなってしまう。リア充層とそのフォロワーを取り込むことが、喫緊の課題であった。

もちろん、僕自身も努力は惜しまなかった。ハブ的な役割を果たしている後輩の女の子をセフレにし、彼女にも参加を呼びかけてもらった。いわゆるステルス・マーケティングである。英語を圧倒的に磨き上げ、海外志向のリア充美女や、USMLEクラスタにも積極的にアプローチした。もちろん運動部に在籍し、肉体改造も手を抜かなかった。

このように、自分としては相当に努力をしていたつもりだった。それでも平均して15−20人集めるのが関の山であった。ITが発達している現代でも、物理的な制約はやはり大きいのだ。そうして不完全燃焼のまま僕は卒業した。

 

*  *  

 

運営の最前線に居たとき「もし都会で行うことができれば、とんでもない勉強会ができるのに」とタラレバを夢想したものだ。各大学や病院に在籍している生え抜きのアルファたちが結集し、圧倒的クオリティの勉強会を行う。僕の都会の勉強会に抱いていた想像はそのようなものだった。

実際に参加してみたら、とんでもない失望であった。実際は、自分の所属先では仲間や友達がおらず女ともまともに話せないようなヘタレが、似たような境遇の人と群れ、くだらないオナニー露出プレイに興じているだけの、煮ても焼いても食えぬクソイベントであった。

クオリティに比して参加者がやたら多いことに関しては考えてみれば当たり前で、参加する可能性のある学生と若手医師の数が、地方と都会では数十倍の単位で違うからだ。地方でやれば3−5人しか来ないようなクオリティでも、フェイスブックでちょろっと宣伝するだけで、50−80人という大きな人数が集まる。

「俺の会も、もし都会で行えば、毎回200人ぐらい参加者が来たんじゃないか」と、自分の境遇を呪った次第である。

騎士団長殺し、村上春樹

 

騎士団長殺し村上春樹

僕は、村上春樹の熱心なファンである。もちろんこの広い世界のことだ。僕よりも「熱心な」読者は存在するだろうが(例えばカンサス州に)、僕は自分のことを熱心な村上春樹のファンだと思っている。新作が出れば、評判や中身の詮索をせずに盲目的に買ってしまう。まるで熱心な宗教家が神父からのメッセージをそのまま鵜呑みにするかのように。

僕が村上春樹のファンになったのは10代後半だ。特に20代前半の頃は、周囲の人々に対して「村上春樹の啓蒙活動」を行っていた。こんな面白い作家は居ないよと、部活の後輩、友人、彼女などに、読むよう促していた。本を読むという話題が出るとほとんど自動的に、僕のおすすめの村上春樹の作品を紹介したものだ。しかし、ある時からそういった行為もしなくなった。その理由を一言で言うと、僕が村上春樹を勧めた相手は多くの場合僕ほど村上春樹を楽しめない、ということに気づいたからだ。今では僕は、村上春樹を積極的に他人に勧めたりはしない。

周囲の知り合いが僕ほど村上春樹を楽しめない理由は、当時ははっきりしなかった。単純につまらないのかもしれない。すぐに浮気や不倫をする登場人物に感情移入が出来ないのかもしれない。長すぎて飽きてしまうのかもしれない。それでも、村上春樹の小説は売れ続けていた。

僕に言わせれば、村上春樹の小説は「自分なりに筋の通った生き方をしていた人が、急に不条理な問題に巻き込まれ、しかし最後まで自分の筋を通し一応の解決を見る。周囲の人はそのことに気づかないが、自分自身はある種の達成感を覚える」といったストーリーだ。自分の考え方を持つことの意義、またそれを守り通すことの価値。それらに意味を見いだせない人にとっては、氏の小説はあまり面白く無いのかもしれない。もちろんそれは僕の考え過ぎなのかもしれないけれど。

村上春樹自身は、自分の批評を一切読まないそうだ。偉い批評家や、ネットでの罵詈雑言を見ても、意味は無いと考えているとのことだ(もちろんアマゾンレビューなんかも)。それよりも、本の売れ行きが増えることが、もっとも自分のファンが熱心に読んでくれていることに指標になると考え、重視しているそうだ。村上氏が気にするのは、一部の舌鋒鋭い論客ではなく、熱心に読み続けてくれる読者のことだけだ。そして、その数は、口角泡を飛ばしながら批判的な物言いをする人の、何百、何万倍も存在するのだ。

そういった村上春樹という人物と彼の作品に関する考え方を知った上で、新作騎士団長殺しを読んでみる。確かに、上下(正式には1,2巻)1000ページを超えるし、無駄に具体的な(と多くの読者は思うだろう)性描写が多いし、伝えたいメッセージも漠然としておりはっきりとはしない。読まないと人生で損をするか、といわれると、全く損することは無いだろう。

アマゾンレビューでは、批判的な評価が目立つ。曰く「長過ぎる、ストーリーが成立していない、性描写のシーンが多すぎ」とのことだ。僕もそれらの点には同意する。興味深いのが、そういった酷評をしている人は一律に「僕はハルキストでは無いのですが、村上春樹の小説は一通り読んでいます」という前置きをしていることだ。村上春樹が嫌いであれば読まなければいいのに、と普通なら思うだろうが、それでも彼らは村上春樹の新作が出ると手に取らずにはいられないのだろう。そして自分勝手に脳内に描いた「理想の村上春樹作品」とのギャップに怒りつつも、1000ページを読み切ってしまう。その魔力こそが、村上春樹の魅力を端的に示している。

騎士団長殺しを読み終わり、僕は全く悪くない小説だと思った。少なくとも、完全に村上春樹の小説であることに疑いはない。読み始めの頃は、再び新しい村上ワールドに浸れることを心から嬉しく思ったし、ページが少なくなってきて「ああ、もう終わってしまうのか」と悲しい気持ちになりながら読み切ることになった。

村上春樹ノーベル文学賞に最も近い、生きている日本人としては世界的に最も評価されている小説家だろう。彼が長編小説を書く必要性は、少なくとも経済的には全く無い。にもかかわらず、彼は騎士団長殺しを世に送り出してくれた。70歳前の初老の男が、時間も体力も相当量必要であろう、新作長編小説を書くことは想像を絶する負担だ。それでも、騎士団長殺しは発表された。そのことに、素直に喜ぼうではないか。

 

名作ノルウェイの森に、僕の好きな一説がある

「あなたってわりに物事をきちんと考える性格なのね、きっと」
「まあそうかもしれないな。たぶんそのせいで人にあまり好かれないんだろうね。昔からそうだな」
それはね、あなたが人に好かれなくたってかまわないと思ってるように見えるからよ。だからある種の人には頭にくるんじゃないかしら。でもあなたと話してるの好きよ。しゃべり方だってすごく変ってるし。『何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ』」

 

人はいつMac Book Airを見捨て、Mac Book Proを手にするのだろうか

先日、巷で話題になっていた、Mac Book Proを買った。

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僕は2010年代初頭に買った、Mac Book Airを使っていました。圧倒的な薄さ、フラッシュストレージによる起動の速さ、電池の持ち、そして何よりクールなそのデザイン。当時大学生だった僕は、自分の格がいくつも上がったと錯覚したものでした。

僕の20代前半。一番長い時間一緒にいたのは、信頼できる友人でもなく、愛する彼女でもなく、このMac Book Airでした。テスト勉強、情報検索、アウトプット、エロ動画。すべての行動をMac Book Airを介して行っていたような気がします。肌身離さず、まるで愛する我が子の様に接してきました。

僕はそのような日々を通して、大きく成長できました。ひとえに、Mac Book Airのおかげです。その意味で、Mac Book Airにはとても感謝しています。しかし、苦難を乗り越えて成長する人間とは違い、僕のMac Book Airはひたすらダメージを蓄積するだけでした。心の底からかっこいいと思ったデザインも、アホな大学生が持ち歩くようになり、陳腐化してしまいました。また、常に持ち歩いているので、ぶつけたり落っことしたりして、傷だらけになっていました。

病院の中で、消毒用アルコール綿(注射の前に皮膚を消毒する綿)で画面を拭いてしまったのは決定的でした。Airのモニターのコーティングを部分的に剥がしていしまったのです。これは汚れではなく表面のガラス自体の問題なので、どうすることもできませんでした。僕は大事なAirをかかえ、近くのAppleストアに駆け込みました。

そこで伝えらた衝撃の事実。なんとガラスだけの修理はできないので、モニターごと交換しろというのです。値段は7−8万。Mac Bookに限った話ではないのですが、Appleの商品は、どこが故障しても部品交換や本体交換で対応されます。きっと、そうした方が人件費や技術費を考慮すると効率的なのでしょう。何でもかんでも合理化を目指す、いかにもアメリカ的な考えです。あまりにも法外な請求に絶望し、僕は傷ついたAirをそのまま抱いて帰路につきました。

今日まで苦楽を共にしてきた俺の大切なパートナー。そう簡単に見捨てること出来ようか!そのまま使い続けることを決意しました。そこから数ヶ月経っても、僕は相変わらずAirと仲良く過ごしていました。

 

先日、付き合って間もない女の子に「パソコン、いつも画面汚いよね」と言われました。

僕は、買い替えを決意しました。

 

僕は学生からプロフェッショナルに Mac BookはAirからProに

Airを買ったときの僕は大学生でしたが、今の僕はプロの医療者である。Airではなく、Professional向けのモデル、つまりMac Book Proがふさわしい、そう判断しました。

2016年末に公表された新型のMac Book Proは、13インチモデルがMac Book Airの13インチモデル(もともと僕が持っていたモデル)と重さがほぼ一緒です。Appleは、2017年3月現在、Airのメジャーアップデートを予定しておりません。Airの11インチは新しいMac Bookに、Airの13インチはProに吸収されるというのが識者の見解のようです。

新しいProの目玉は、キーボード上部のファンクションキーを廃止し、代わりにtouch barという横長のタッチパネルを搭載したことです。これは、扱っているアプリによってキーの内訳が変化し、作業の効率化を目指して開発されたものです。モニター以外の場所がピカピカするのは、確かにとても未来的でとてつもなくかっこいいです。しかし電池の消耗が早くなることと、用途が発表から半年ほど続く今でもあまり無いこと、何より値段が3万も高くなることを勘案し、今回は見送りました。

 

Mac Book Airから何も変わっていない

さて、届いたMac Book Pro13インチ、touch barなしモデルですが、中身はAirとほぼ変わりません。正常アップデートと言う雰囲気です。感覚としては、iPhoneを買い換える感覚に近いです。コンセプトと使用感は全く変化しませんが、あらゆる面において前モデルに勝っています。最近のアップルは、革新的な進化はしませんが、地味に使いやすくなる正常進化をします。どうやら、Apple自体もそのことに自覚的であるようです。これはiPhoneに関する記事ですが、売れに売れまくったMac Book Airにも当てはまるでしょう。

 故スティーブ・ジョブズ氏が10年前にiPhoneを見せたときのような驚きをいつまでも消費者に与え続けることはできない。アップル製品も機能向上が鈍化する一方、中国勢は次々にiPhoneに似た製品を発売する。16年の年初からはiPhoneの減産が始まり、昨年は「アップルの最良の日々が過ぎ去った」(米運用会社サンフォード・バーンスタイン)と評された。

 だが年末商戦では、目立った機能の向上が防水などにとどまった「7」が売れた。16年10~12月のiPhoneの世界販売は前年同期比5%増の7829万台と、四半期ベースで過去最高となった。

 市場の成長鈍化に逆行するように復調した理由はiPhoneに慣れたユーザーが離れないためだ。(中略)iPhoneのリピート率は8割。慣れた操作感を捨て、アンドロイド端末を選ぶ利用者は少ない。

日経新聞:復調アップルの深謀 成熟スマホ市場で販売最高、3月5日

 

Mac Book Proは高い

ところで、家で大画面にて作業するという理由でProが必ずしも必要か、と言われると結構微妙です。なぜなら、iMacという、デスクトップパソコンが存在するから。iMacはProと比較すると圧倒的にスペックが高く、おまけに10万円以下で購入できます。Airを外用、iMacを家用、と使い分けるのであれば、必ずしもProに拘る必要はないのです。

13インチ,のtouch bar無しモデル、要するに一番安いProでも、本体、保証、コード類をあわせると20万もします。使い手を選ぶモデルと言えるでしょう。何と言ってもMac Book「Pro」ですからね。

初期研修医に捧ぐ!地獄の研修を生き延びた俺が役立つ記事をまとめてみた

医師のShima-Tatsuyaです。

僕のブログもおかげさまで、毎月数万アクセスは安定して得られるようになってきました。これもひとえに、ブログやツイッター上で絡んでくれた皆様のおかげです。ありがとうございました。

今回は、これまで反響の多かった初期臨床研修の記事をまとめ、そこに解説を加えて紹介させていただきます。

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研修先選び

初期研修先選びはとても重要です。なぜなら日本の医療にはものすごーく格差があるからです。特に地方の中核病院に行くと、何十年も前の医療を平気で行っていたり、全くエビデンスのないプラクティスをドヤ顔で施行したりしています。初期研修医は医者としては白紙の状態なので、この段階で間違った流儀を身につけると、3年目で別の病院に移ったときに大恥をかきます。

逆に言えば、一生似たような地域で医者をやるならば、自分の医療がおかしいことに気づかないのであまり問題にならない、という考え方もできます。ただ訴訟のリスクなどを考えると、良い医療を提供している病院でやるのが安全だと思います。良い医療を提供している病院は、大体が人気研修病院です。

 

大学病院vs市中病院、というのが初期研修選びでよく議題に上げられますが、当ブログとしては断然市中病院を押します。その理由がこの記事で詳細に語られています。

研修病院の良さは「時々チェックが入るが自主性重んじる>手取り足取り病院>完全放置プレイ病院」という順番です。担当患者の数というのは、自分のキャパシティにかなり左右されるので、その辺りは自分と相談してください。ゆるふわ女子が、地獄の市中病院に行ってしまうと、マジで自殺したりします。

市中病院の研修医のほうがモテる、という理由も忘れてはいけませんよ。

仕事編

初期研修医の基本的な仕事は「奴隷業」です。研修医は、医者ピラミッドの最下層に組み込まれ、医師免許さえあれば猿でもできる、というような仕事が山ほど振られます。そこでキレてはいけません。

上級医が好きなのは、言われたことを、さっと正確に行う忠実な下僕です。自分自身のアセスメントや臨床能力の向上は、水面下でコソコソ行うのが吉であります。

 

 「奴隷業」を行っているときは、基本的には言われたことをやっていくだけで毎日が過ぎ去っていくのですが、時々、医者としての能力が問われる瞬間が来ます。その時が、大きく飛躍するチャンスです。こういった瞬間は、本当にいきなり何の前触れもなく来るので、常に虎視眈々と構えていましょう。

緊張のあまり脇汗ダラダラ、飯も食えない。そんな日々があなたを鍛えます。毎日がそんな感じだと今度は感覚が麻痺してしまうので、何事もバランスが大事ですね。

 

QOL/私生活編

QOLのいちばん重要な要素は、ワークライフバランスや仕事による充実感ももちろん大事ですが、皆が一番気にするのは、何よりモテでしょう。この項目に関しては、安心してください。研修医で男で市中病院であれば、死ぬほどモテます。

この記事では、なぜ研修医がこうもモテるのか、どうやったら効率よくレディと関係が維持できるのか、実際に初期研修の現場にいたときの情報を頼りに、詳細に記してあります。

 

私生活を構成する要素の中で、極めて重要なのに案外軽視されがちなのが、運動だと思います。研修医は忙しいので、勉強とモテにある程度時間を注いでしまうと、運動の時間がなかなか取れません。

そこで有酸素運動をやっても、体内環境と有酸素運動耐性がつくだけで、体の見た目には反映されません。運動自体も単調ですし、おもしろくありません。そこで、おすすめなのが筋トレです。

筋トレは短時間で多くの運動量が確保でき、しかも、見た目がかっこよくなります。僕はなんとか週2回は筋トレをするように工夫しておりました。特に、当直明けの日に行うがおすすめです。理由は、当直明けは頭がぼーっとしているため、勉強ができないのですが、運動であれば、眠くてもできます。しかも寝付きも良くなります。筋トレ、おすすめです。 

 

初期研修を続けていれば、飲みが好きな上司の一人や二人、必ずお目にかかるでしょう。飲み会に参加してしまうと、仮に20時開始として、どうあがいても家にかえるのは23時ぐらいになってしまいます。僕の病院は朝6時前に出勤する必要があったので、お風呂や着替え洗顔などを行うと、睡眠時間が6時間を切ってしまいます。

おまけに、勉強やモテといったQOL向上行為ができなくなるので、当ブログとしては、ものすごい重要な飲み会でない限り、上司とのゲリラ的な飲み会は奨励しません。

 

初期研修は大事

初期研修は無駄、という主張をする人は結構存在します。特に、高い専門性を持っており、自分の特殊技能にプライドを持っている大学病院勤務の人に顕著です。そんなおっさんおばさんは、堂々と無視しましょう。

そういった人は、総合診療科やERなどのプライマリ・ケア医を、「手技が出来ないヌルい奴ら」だと勘違いしていますが、多くの問題を持った高齢化社会で、どちらのタイプの医者が求められているかは明白です。

安心して奴隷業に邁進してください。

【君はそのハードルを超えることができるか】損する結婚 儲かる離婚、藤沢数希

損する結婚 儲かる離婚、藤沢数希

 元外資系金融マン、人気ブロガーで恋愛工学の祖、藤沢数希氏の新刊。僕は氏の恋愛工学メルマガも購読しているが、そこでも数か月前からこの本に関して盛んに宣伝されていた。恋愛の目的=セックス数、というわかりやすいゴール設定で、恋愛ノウハウの体系化に成功した藤沢氏。そんな著者が満を持して送り出す、結婚と離婚の本とはどういった物なのか。興味を持って読み始めた。

まず最初に、著者の結婚観について記そう。

「結婚とは「所得連動型の債権」という金融商品である」

これが氏の結婚に対するアティテュードである。

全く縁のなかった二人の男女が巡り会い、そして愛を育み、結婚というめでたいゴールを迎える。この様な一般的な感覚を持つ者がこの言葉を聞くと、強烈な違和感を覚えるだろう。愛を金に換算するとはどういうことだ!、そういった一般論で突っ込まれること請け合いである。

そこは身も蓋もない理論で、恋愛の真実を淡々と書き続けた藤沢氏である。舌鋒鋭く、結婚と離婚に関する金の動きを見事に暴き出す。

以下に重要な点をまとめてみよう。 

「結婚と離婚で動く金は、基本的には、慰謝料、財産分与、婚姻費用(コンピ)の3つ」

慰謝料

慰謝料とは、精神的な苦痛に対する損害賠償金であり、基本的には、不貞を働き離婚の原因を作った側が相手へ支払う。「裁判所で浮気といえば、肉体関係、つまりセックスをしたかどうかが全て」であり「問題となるのはセックスの有無だけ」だ。「継続的にセックスをする相手が居た場合は、文句なしに「不貞行為」になる」。

日本では慰謝料の相場はかなり低く押さられており、だいたい100〜200万ぐらいのようだ。数千万以上の金が動く離婚劇では、ほとんど計算から無視できる、というのが著者の主張である。

ちなみに、有名人やスポーツ選手の離婚報道で、慰謝料は数千万円!などという報道をたまに見かけるが、これは下の2つ、財産分与婚姻費用のことであると推測される。特に婚姻費用では、額は数千万円に登ることもあり、しっかりとその内容を理解する必要がある。

要するに「離婚で動く金の大部分が、どっちが悪いかとは直接的には無関係なのである」。

財産分与

財産分与とは、離婚する際に二人の財産を分割する目的で、結婚してから形成された財産をお互いに分け合うシステムのことだ。そして、分与の対象となるのはあくまで結婚してから形成された財産、つまり共有財産だけとなる。

ここで重要なことは、財産分与に関しては(婚姻費用もだが)、結婚前までに持っていた金は関係ないということである。「つまり、一財産作って、引退間近でそろそろ身を固めようかと思っているスポーツ選手と結婚しても、その後に稼がないと財産が減っていくので、妻が受け取る財産分与はゼロになるのだ」。

一般的なサラリーマンであれば、結婚したからといって、その後にも大した財産はたまらない。なので、財産分与も大した額にはならない。しかし、成功した起業家などは、結婚した後に大きく財産を増やすこともある。「ときに財産分与でとんでもない金額になることもある」。

逆に「親が金持ちのボンボンと結婚しても、結婚前にあった親の財産は」財産分与には「関係ないので、理論的には奥さんはそこから1円も取らないことになる」。

「結婚の法律は代々続く金持ちに甘く、成金に厳しい」のである。

婚姻費用

最重要なのがコンピこと婚姻費用

離婚騒動が持ち上がってから、夫と妻が実際に離婚するまでには、タイムラグがある。その間、多くの場合は別居することになるだろう。しかし、民法の規定で、夫婦は相手の生活を自分と同じレベルで維持し、夫婦の資産、収入を分担する義務があるとされている。

これを法的根拠とし、「夫婦間でより稼いでいる方が、そうでない方に毎月一定の金額を支払う義務」が出現する。これが婚姻費用、通称コンピである。コンピの算定方法はネットで調べてほしいが、基本的には収入が多いほど増える。

夫は年収1000万円のサラリーマン、専業主婦、子 なし

→コンピは14~16万円(月)

「コンピは裁判で離婚が認められるまで払い続ける必要が」あり、「裁判はとても長い」のである。「調停、家庭裁判所高等裁判所と裁判を続けると、簡単に2−3年はかかる」。「このコンピのために、ある程度の所得が有るサラリーマンが離婚する際の支払金額が、簡単に全財産を上回ることになるのだ」。

 婚姻費用の法的根拠

そもそも、なぜ奥さんと稼ぎ頭は同じレベルの生活を維持しなければならない、という法律になっているのか?これは、内助の功、という考えに基づいている。現代の結婚制度では、婚姻届にハンコを押した瞬間から、旦那は奥さんの「内助の功」によって金をより多く稼げるようになっている、という風に解釈されている。

なので、結婚後に得た生活レベルや財産に関して、妻と夫の貢献度は全く同じであり、よって同じ額を貰う権利がある、ということだ。

ちなみに、婚姻費用の法的根拠をみればわかるが、これはより稼ぎの多いほうが、結婚生活を維持するのに必要な金額を、稼ぎの少ない方に渡す、というシステムなので、妻のほうが稼ぎが多い場合は、当然妻から夫へ金を渡す必要がある外資系でバリバリ言わせているキャリアウーマンが、イケメンのヒモと結婚し、ヒモの浮気で離婚することになったとしよう。当然ながら、この場合はウーマン→ヒモの方向でコンピを支払う必要がある。日本の法律は、完全に男女平等なのだ。

優良銘柄は大企業の正社員、弁護士、医師

離婚により妻(より稼いでいない方)が得られる金は、結婚の収入により決定されることが、今までの議論により明らかになった。収入の安定性を考えると、大企業の正社員、公務員、会計士、弁護士、医師などの安定した職業の男は、とてもお買い得だといえる。

裁判所は、婚姻費用などの支払い命令を書いてくれる。これを根拠に、給料の差し押さえを行うわけだが、裁判所は実際の取り立てはやってくれない。しかし、相手が大企業のサラリーマンや医師の場合、この紙切れは絶対的な力をもつ。「こうした堅い職業の男たちは、伝統的には結婚相手としては非常に人気があるのだが、それには理由があるのだ」。

ありのままの結婚/離婚の真実を知った感想

さてさて、私Tatsuyaは結婚したことはないが、これまで、たくさんの女の子とおつきあいさせて頂いた。その中には、この子となら、結婚を含めて長期間の関係を築いてもいいかな、と思える子も居た。結局色々なな事情があって、そのゴールにはまだ至って居ないのだが。

この本を通して、結婚相手を選ぶ基準に、離婚による金の分担も考慮する必要があるということを学べた。もし素敵な女の子と出会い、愛し合い、結婚することになったとしよう。その際、もしその子が専業主婦志望であった場合、そして不幸にもその子と離婚することになったら・・・。

全財産を持っていかれてしまうようなことが起きるかもしれない。それでも構わないと自信を持って言えるか。

そんな素敵な女子に出会い、大きなハードルを易々と超えることができるような愛を育むことが出来たら、それはとても素敵なことのように思えるのだ。

 

(「」内は原文引用)

放任主義の職場は成長につながるか

医師のTatsuyaです。

社会人になって最初の一年が大事。仕事人としての成長は最初の3年のスタートダッシュで決まる。みたいな話をよく聞く。おおくのおっさんが口をそろえて言うので、そうなのだろう。医者の場合はどうだろうか。

医者になって最初の2年間は「初期研修医」という身分になる。

この間は、内科・外科・産婦人科・小児科などを、2-3ヶ月の比較的短い期間でローテーションし、オンザジョブトレーニングを行う。この初期研修の目的は、医療全般に関してある程度の知識を身につけ「自分の専門分野以外のことは全然わかりまてぇーんという医者を減らそう」、というのが狙いだ。

初期研修を行う病院は、基本的には全国どこの病院でも自由に選べる。受け入れ側の病院は「研修指定病院」をいう認可を受ける必要があり、その基準にはベッド数、標榜科の種類、在籍する医師の数など、ある程度の規模が求められる。そこら辺の開業医が初期研修先として研修医を募集する、ということは出来ない。医者の就職事情は、受け入れ枠>>研修医数なので、基本的には売り手市場だ。

医学部を卒業したら、出身大学の大学病院で行ってもいいし、全然自分にゆかりのない地域の市中病院に潜り込んでも良い。無限とも思える選択肢を絞り込むため、医学生は5年生ぐらいになると初期研修先を決めるため、いろいろな病院へ見学へ行くようになる。初期研修先として職場を選ぶときの決め手になる要素は様々だ。給料が高いとか、QOLが高いとか、将来のキャリアに繋がりやすか、などなど。

今回はその中でも、仕事場の初期研修医の裁量に関して、フォーカスを当ててみたい。研修病院は、「放任主義の病院」と「逐一チェックが入る病院の2つ」に別れる。そのどちらが、医者の最初の2年間という重要な時期を捧ぐにふさわしいのだろうか。

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市中病院

幅広いバラエティの患者数多く診る、というのが目標であれば、やはり市中病院にはかなわないだろう。もともと患者を診るために作られた施設であるので、立地や内部の医療システムも、多くの患者をケアすることに主眼が置かれている。最適化が進んでいるのだ。

また患者の数に比べて医者の数が少ないので、各々の医者の裁量は必然的に大きくなる。具体的に言うと、若手が患者の治療方針を責任を持って決定する機会が多くなるのだ。自分でディシジョンメイクを行うことが、一番の成長につながることに疑いはない。そういった面では「忙しい市中病院」が自分の成長に向けてベストの選択になる。

ところで市中病院も、クソ暇だが、田舎で給料がメッチャ高い病院というのもある。そういった「忙しくない市中病院」は、人的資源の問題で、きめ細やかな指導が不可能な環境であることが多い。また、担当できる患者の数や患者層の幅も狭く、広く自分の能力を向上させると言う初期研修の目的にはそぐわない。借金地獄に喘いでいるとか、全然働きたくないでござるとか、特殊な場合を除き積極的に選択する理由は見当たらない。 

大学病院

大学病院には「稀な疾患を待つ特殊な患者が」「とっても少ない数来る」ので、初期研修の目的には全くと言っていいほどフィットしていない。おまけに給料も安い。基礎研究にどっぷり浸かりたいとか、教授になりたいとか、格別の理由がないのであれば、候補から外すのが懸命だろう。

さらに、大学病院では、医者が余っているので、若手や初期研修医が一人で責任を持って決断を下す、と言う作業がしにくい。部下のマネジメントを主体的に行っている上級医も少ない。そういった上級医は、年次が上がっただけで自動的に部下がついてしまい、「ほんと使えねえ部下だ」と愚痴を言いながら雑用を押し付けてくる。駄目なマネージャーの巣窟である。

しかも、大学病院の研修医は驚くほどモテないQOLの観点からも避けるのべきだ。

医療はうまくいってるかどうか、がわかりにくい

現段階でベストな医療プラクティスは標準医療であるという記事を以前書いた。

「自分の成長=正しい医療を提供出来るようになること」と定義してみる。

自分で仕事をする→失敗→患者に不利益が起こる→セルフフィードバックをかける→改善。このシステムがあれば、逐一他の医者からチェックしてもらわなくても、どんどん診療能力が改善するはずだ。

しかし、医療現場では、このサイクルで一番重要なフィードバックシステムが働きにくい。なぜなら「患者に不利益が起こるとか売上が下がる」といったネガティブなイベントが、医療現場では起きにくいからだ(正確には、起きているのだが自分には直接的に返ってこない)。

外来で行った医療が果たして「良い医療」だったのか、実はそれは医者本人にはなかなかわからない。何故なら、外来で見ている病気はほとんどが勝手に治る病気であり、すぐに死んだり大きな問題が起きる病気は極めて少ないので、テキトーな治療を行っても(目に見える)問題が起きないからだ。また、100点の医療を行っても60点の医療を行っても、患者は医者の能力に関して、接客能力しか良し悪しを判断する材料がない。 同様に、入院患者の治療も、周りや一般的な医療パフォーマンスと比較して、自分の治療方針がうまく行ってるか、と言う把握は非常に難しい。

 医療者は常に「自分は間違っていないか。もっと良い方針はないのか」という自問自答と自己研鑽が求められるが、それだけでは限界があるように思う。医療の良し悪しに関しては、優れた別の医師がチェックするしか現実的には方法はない。

 

PDCAサイクルの要であるCHECKのフェーズ。ここを上司やもっと優れた医者が行うしか方法が無いとするのであれば、放任プレーの職場だと、自分でとりあえず解決する、みたいな度胸は身につくが、それが本当に良い医療なのか吟味する能力が育たない。おまけに、自分で何でも解決出来る、と勘違いする機会が増えれば、自尊心は肥大する。そういった若手医師は、自分自身による自分自身へのチェックシステムがさらに発達しにくくなるという悪循環に陥る。

医療現場では、ちょっとぐらい適当なことしても、上司から怒られたり、患者家族が裁判を起こしたり、給料が下がったりするわけではない。何より「すごい医療」「自分の医療」のギャップに気付くことが出来るのは、自分で自分を疑い研鑽を続けるか、自分より優れた医師にツッコミを入れてもらう、という2パターンしか存在しない。自信はあるが、実際は駄目医者ってのはマジめんどいのだ。

上記の理由から、研修病院の良さは「時々チェックが入るが自主性重んじる>手取り足取り病院>完全放置プレイ病院」という順番になるだろうか。担当患者の数というのは自分のキャパシティにもかなり左右されるので、その辺りは自分との相談であろう。

プロフェッショナリズムとは何か

この件に関して、商社マン開司にも話を聞いてみた。

放任主義の職場と逐一チェックが入る職場のどちらが成長できるか。それは、圧倒的に放任主義の職場だろう。放任主義では自分で自分のアクション決めないといけない。それにより自分の行動の責任が明確になる。逐一チェックされてしまうと、自分で考える必要がないので、自主性が育たない。

会社での仕事には、どういう行動すれば上司に評価されるか、という意味での正解はある。その観点では、上司に逐一仕事内容を見てもらう効果はあると言える。だけど上司が「この事業やるぞ!」ていって進めたのに蚊ほども儲からずに終わる、ということもよくあることだ。

仕事の正解=市場に評価されること、とするならば、逐一チェックされれば必ず正解に近づくということにはならない。上司の言うことを聞いていれば必ずしも正しい仕事が出来るかというと、そんなことはないのだ。

おまけに、逐一チェックだとその上司がチェックして直してくれることに甘えてしまう。まあ、俺は大手商社という、スーパー逐一チェック職場に居るから、放任主義の職場に憧れているだけかもしれないが。

 

プロフェッショナリズムとは、クライアントからの依頼に応えるため、自主的にクソ努力することらしい。プロフェッショナルな仕事内容は、その定義上その道のプロでなければ仕事の良し悪しが判断できない。

その高い専門性の、表面からは見えない場所で、常に研鑽を行うこと。これをプロフェッショナリズムと呼ぶならば、医者も大いにプロフェショナリズムが求められる仕事といえるだろう。